オロドウ日記

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iPhoneXS レビュー(iPhone7との比較中心)

iPhoneXSを購入しました!

動画はちゃんとしたものを作ろうとすると面倒なので気軽にブログでレビューします。以前まではSIMフリーのiPhone7を利用してたのでその比較となります。

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サイズと重量

購入したのはiPhoneXS・256GB・ゴールドです。大きさを比較するとそこまで変わらない気がします。気持ち大きい位ですが操作していると縦の長さが少々気になる感じです。私は手が大きいのでちょっと頑張れば届きますが、手が小さい人には厳しいかもしれません。

大きさ以上に気になるのが重さでした。iPhone7は138グラムから177グラムと39グラム重くなりました。グラム的には少ないですがこの重さは差が大きいです。

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iPhone7とiPhoneXSの比較

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液晶

画質はいうまでもなく最高です。SuperRetinaディスプレイのOLED。解像度は1334*750(326ppi)から2436*1125(458ppi)、コントラストは1400:1から100万:1に大幅に進化してこの良さは一目瞭然。元々文句ないものだったのにさらに良くなってます。

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処理能力

チップはA10FusionからA12Bionicに変わってます。4コアから6コアに変わってるということで性能も爆上げ。しかしそのせいか熱は以前よりある気がします。ベンチマークソフトのAnTuTuを回したところ18万から31.8万にアップしてます。なんか調べるとスコアが34万でるみたいですが、私は出ませんでした・・・。

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最強?のカメラ

最も凄いと思ったのはカメラ性能。デュアルカメラは正確な表現以上に美しく表現されます。特に暗い所に強くなったとういことなので早速夜の街を撮ってみましたが予想以上の性能でした。ポートレートモードではボケを活かした写真も撮れます。

ビデオカメラも4K60p、HDR(30p)にも対応していて2倍の光学ズームも対応でステレオで録音が可能になっていて、録音もかなり良くなってます。インカメラでも1080p60fpsでの撮影が可能なので自撮りがかなりやりやすくなっています。

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適当に撮った夜の街

 

カメラ性能は下記の動画がわかりやすかったです。(さすがカズさん)

ホームボタンの削除

iPhoneXシリーズではホームボタンが削除されたので操作性がかなり変わってます。最初は2日間は気づいたらホームボタンに指を置いていましたが、段々となれてきました。やっぱ操作はある程度時間が経てば慣れてきます。

FaceID

FaceIDも予想以上に反応が早くて正面を向ければ1秒経たずにロックが解除されます。iPhoneXでは多少の遅かったようですが、XSではストレスなく認識されます。TouchIDとFaceIDのどちらが好きかという議論をよく聞きますが、私はFaceIDです。花粉の季節以外はマスクをつけないので、顔認証の方がスムーズです。ただやはり起きた直後は認識されないことがありました。私の場合手汗が酷いのでTouchIDの方がうまく認識されないことが多かったです。なのでFaceIDは嬉しい機能です。

驚異の価格

値段は下記のような形となってます。

・iPhone XSシリーズ各種の価格
iPhone XS: 64GB 121824円 / 256GB 140184円 / 512GB 165800円
iPhone XS Max: 64GB 134784円 / 256GB 153144円 / 512GB 177984円
ちなみにソフトバンクの場合は端末料金は180000円(税込)となり24回分割で7500円に通信料(データ50GB)8618円込みで毎月16118円となります。た、たけぇ。

全体的な性能・感想

全体的な感想として端末はかなりの高性能で良いとは言えます。カメラ、画質、処理能力には申し分ありません。Youtuberやインスタグラマーなど、スマホを仕事で良く使う人や趣味でカメラにこだわる人には良い端末だと思います。

逆を言えば高性能過ぎて、普通の人には必要なく感じます。カメラも高性能ですし、処理能力もここまで必要なのかと言えば疑問に思います。値段も最も高いタイプですと18万近くにも達しますので携帯の領域を超えているとしか思えません。

iPhoneXSから見るAppleの戦略の考察

恐らくiPhoneは今後このMacBookProみたいな高級機と、今度でるiPhoneXRの普及期の2タイプの戦略で行くのではないでしょうか?ネットではiPhoneSEの後継機に期待していた声も大きかったのですが、発表はなかったですしむしろiPhoneSEをホームページから削除しております。私の予想ですが、小型端末は世界的にも需要が少ないか、iPhoneSEだとあまり利益が出ないのだと思います。LINEやWeb、ちょっとしたカメラがあればいいという人向けだと思いますが、そうなると付加価値をつけて販売できないです。コストパフォーマンスで勝負するのであれば中韓にはほぼ勝ち目ないですし、そもそも「Appleでわざわざ作る必要があるか?」と言う結論に達したのではないでしょうか?

私の勝手なイメージですが、そういう人はApp Storeでお金も使わないでしょうし、アクセサリも買わないので、「総合的に見て利幅が薄いのでは?」と考えます。スマホの需要が減っている中で高級化路線で利益を増やすのは戦略的に見て間違ってはいないと思います。

 

素晴らしいスマホだと思いますが、
値段がクソ高いのは否定出来ません。

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 小型スマホはやっぱ世界的に見てニッチなんだろうな

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ところで高校生でiPhoneX持ってるやついたんだけど

なんなの?学生で必要なの?勉強に必要?

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             (うわ~~、めんどくせー)

安宅家と安宅ファミリー

3日連続でブログアップします。久しぶりの連投。多分明日はアップしないでしょう。

今回は多くの安宅産業回において最も注目されていた安宅ファミリーについて書きます。

 

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安宅家

安宅産業は安宅弥吉が創業しました。弥吉は元々務めていた日下部商店で体得した「堅実第一主義」に則り、手堅い商売を進めて安宅産業を大きくしました。

弥吉は破綻した旧日下部商店から引き取った社員や中途入社の社員が、経営が厳しい中給与の値上げ交渉をしてきたり、弥吉の目の届かないところで勝手な取引を行い、損を出していたことが発覚します。そこで弥吉は「社員は自分で育てるしかない」として、小学校卒業をした人を紹介してもらい、学費を出してあげて卒業したら安宅に入社させるなどをしました。この面倒をかけた人々を「ボンサン」と言っていたそうです。

長男英一と次男重雄

順調経営だった安宅産業は戦時中に陸軍といざこざがおこり、弥吉は安宅産業の社長を退任せざるをえませんでした。跡継ぎとして二人名前が挙がります。一人は次男の安宅重雄。堅実的ですが哲学専攻で学究肌で商売に勢力を傾けるタイプではありませんでした。もう一人の長男は安宅英一。重雄の10歳年上で音楽や芸術に興味があり、芸術家に対して毎月1万円以上(当時の大卒初任給は平均40円)支援するなど浪費癖が酷かったとのこと。英一は安宅産業の御曹司で欲しいものはなんでも買い与え溺愛されていたようなので、この浪費癖も納得もできます。

結局安宅弥吉は跡継ぎに当時30代前半だった次男の重雄にしました。英一自身も「社長なんて面倒なことはかなわん」といって重雄に譲ったとも言われております。戦後すぐに戦争責任問題等があり、重雄は多くの取締役とともに退任しました。後任として英一は自身の派閥で最も力を持っている猪崎を社長に据えるように重雄に迫りました。英一としては社長業はやりたくないが安宅の実権を握りたいと目論んでいたともいわれております。重雄はこれを拒否して、「神田正吉を社長に据えないのであれば私は退任しない」と反発。結局神田が時期社長となり、猪崎は副社長へと就任しました。(猪崎は後に社長になります。)

これ以降重雄に関する記述はありませんでした。

社賓安宅英一

戦後処理の中で公職追放を恐れて安宅家は他の総合商社と同様に安宅産業のほとんどを手放すことになりました。GHQの占領体制が終わると同時に他の商社は株を買い戻しますが安宅家は買い戻しませんでした。英一が会長に就任する1955年以降にある程度買い戻しますが、増資による希薄化で結局2.8%とたいした影響力を持たない形になりました。よって安宅産業は外見上、親族経営と言える体制ではありませんでした。しかし実情は大きく違っています。

トップである猪崎は英一に対しては頭が上がない状況。英一がノーと言えばそれに従う他はありませんでした。英一は「経営のことはわからんが、人間の判断はわしがする」と言い放ち人事権の掌握します。これにより二重構造が生まれ安宅の迷走が始まりました。英一は会長職を退いたあとも社賓という肩書を作り呼ばせました。この社賓は株式を持っていないので社主とも異なり、しかし安宅産業は安宅家のもので英一は特別な存在という意味合いで作られました(意味がわからない)。

迷走具合が最も顕著だったのが、住友商事との合併です。1966年夏にメインバンクである住友銀行から住友商事との合併を提案されました。この合併が実現すれば三井物産、三菱商事、丸紅、伊藤忠商事に続く第五位の巨大な商社ができる予定でした。具体的に人事を含めた体制、会社名、合併比率など大枠は決まりつつありましたが、社賓の英一は怒り「きみは安宅を潰す気か」とまで言わ放ちました。

上司に異動を言い渡された若手社員が「そんなものはファミリーの力で撤回させてやる」と言い返したこともあるといわれております。安宅英一には昭弥という息子がいました。若干32歳で取締役就任しており、常務、専務と出世街道を歩みました。これはもちろん安宅英一の影響力が大きいと言われております。英一はゆくゆく昭弥を社長に就任させたいと目論んでいました。

ところでなぜ株主でもない安宅家がここまで力をつけられたのか。

安宅ファミリー

それは安宅ファミリーという存在があります。安宅の親族ではなく別の組織のようなものでした。このファミリーの構成は

  • 奨学金をもらって学校を卒業した安宅産業の社員
  • 安宅家のコネクションで入社した人
  • 入社後に英一や昭弥の眼に止まり引き立てられた社員

というものでした。これらの人員が安宅中に存在して、上司・同僚・後輩の日常の仕事ぶりなどが次々と報告されていたようで、中には誹謗中傷も珍しくなかったようです。この安宅ファミリーはファミリー同士、メンバーもわからないため不気味な存在だったようです。

英一や昭弥はこの安宅ファミリーにより人事権どころか会社の実験を握り続けました。この親子は子会社の安宅興産を通じて、英一の趣味である陶磁器収集を行ったり、昭弥のクラシックカーに資金を使われました。さらに一般社員が交際費を極力切り詰めている中、昭弥は月1000万円の交際費を使っていたことが銀行管理下の時に発覚します。そのほか噂程度ですが、「湯河原のホテル5階全フロアを借り切り、業者の接待と称して会社の金で銀座のホステスを連れて行った」「夏の一ヶ月半、接待という名目で別荘を借り切り一族だけで使っていた」などあったようです。

安宅コレクション

安宅産業の灰色的な資産はエーシー産業という子会社を作り、そこで処分をされました。その中に含まれていた英一が収集していたコレクションは資産価値が非常に高いと言われていたようです。エーシー産業が引き継ぐことになっても文化庁が保全要請がでるなど注目が集まりました。住友銀行はこの処理について検討した結果、大阪市への寄託を行い、建設資金も用意(基金への積み立て寄付金の運用利息)して出来たのが大阪市立東洋陶磁美術館となります。2014年まではアタカ大機という企業がありましたが日立造船に吸収された為、恐らく現在唯一「安宅」の名前が残っているものかと思います。

結び

安宅産業についてはいにしえに伝わる総合商社で、石油事業に失敗した親族経営の企業という認識でスタートしました。色々な文献を読みあさっていると想像を超える内部事情で、恐らくしくじり企業で最もカオスな企業だと思います。

安宅産業は近代の経営史でも重要な意味を持つ企業だと思います。ガバナンスやコンプライアンスなどの透明性を重視している中で、これらをおろそかにした末路を示す良い事例だと思います。

 

親族経営は決して悪いことではありません。

親族がクソだと会社がクソになるだけです。

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代々の社長が安宅家の呪縛から逃れようと

しているがことごとく失敗しているからな

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別に親族じゃなくてもトップがクソなケースは

結構あるよな

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          同意を求めるな


【ゆっくり解説】しくじり企業 Chapter19 ~安宅産業~

 

安宅産業合併の三つ巴戦(本人不在)

どうも係長です。こんな連続でブログ更新して、どうした?思われるかもしれないのですが、最近なにか活動しないと不安になるという病気にかかっております。

今回は安宅産業と伊藤忠との合併について書きたいと思います。動画と結構かぶる部分もありますが、ご容赦ください。

 

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合併の経緯

伊藤忠と安宅産業との合併の経緯は、安宅産業が色々無理な取引を続けていて、そこに石油取引で大損をこき、単体での回復が不可能な状況に陥りました。そこでメインバンクである住友銀行が救う必要がありました。

 

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時代的にも通常であればメインバンクだけが損をかぶって終わりと思うかもしれません。しかし金額が非常に多く、メインバンクだけで被害を被るのは難しい状況でした。さらに、当時の日本にとって「信用」というのは非常に大きいものでした。日本は先進国と言える状況はなく、外貨も不足している状況で、邦銀(日本の銀行)が欧州の銀行にお金を借りて、そのお金を日本企業に貸し付けているという状況でした。これも日本の信用があるからできることであって、信用がなくなればできなくなります。当時の日本銀行の総裁である森永貞一郎氏は「安宅アメリカの破綻は万難を排して水際で食い止めなければならない。安宅産業の本体を揺るがせてはその影響はあまりに重大である」と言及しております。

進駐軍

住友銀行はこの日銀の指示もあり、伊藤忠との合併にさせるように動きます。住友銀行は伊藤忠に対して「絶対に損はさせない」として、合併を懇願しました。それに対して伊藤忠も住友銀行への恩義と、本格的な総合商社への脱皮を図る上で鉄の商権が欲しかったので、前向きに検討するようになりました。そして、1976年1月に伊藤忠と安宅産業は提携を発表します。

住友銀行・共和銀行(メインバンク)は安宅に顧問団を派遣して、伊藤忠も安宅に出向していた松井氏を呼び戻し安宅の合併に向けて動きます。松井氏は内部を徹底的に調査。メインバンクは安宅産業を管理下において徹底的に調査と統制を行います。その結果、前回に記載したようなサイコパスな取引が明るみに出ます。さらに粉飾決算で見せかけの営業成績を作っており、実情を知るものは安宅も含めてほとんどいなかった状況です。

商社と銀行の視点

安宅は社長を住友銀行出身の小松氏、副社長に協和銀行出身の田中氏、会長を松井氏という形の体制にして、さらに内部を徹底調査。そして銀行と伊藤忠との合併交渉が始まります。当初は半期1兆円の売上がある商権・3600人の人員のうちどれだけ伊藤忠が引き取るかが焦点でした。

水増しした売上、死んでるも当然のゾンビ取引などを考慮して、銀行側は継承商権額を5663億円と提示。伊藤忠はこれをさらに精査した結果引き取れるとしたのはわずか2720億円と回答。この乖離している理由は商社と銀行の二つの別の視点で商権をみた結果と言われております。

銀行側が見る視点は全体の取引に対して、架空取引でなかったり、赤字覚悟でない取引などを排除するネガティブアプローチです。対して伊藤忠は200人の社員が商権の実情を含めて細かく精査し伊藤忠に今後利益を与えるか取引を積み上げるポジティブアプローチによる差です。

銀行側はおいしいとこ取りと揶揄しておりますが、伊藤忠も当時不採算事業を切り捨てて、ようやく回復の見込みが出た矢先でこの合併案件だったので、慎重にならざるを得なかったという問題もありました。

銀行側は絶対に拒否されることは許されない状況で、年内にまとめる必要がありました。破綻処理ではなく合併という体裁上、せめて半分は引き取ってもらいたかった狙いがありました。

結局は2700億円~2800億円分を抜き出して伊藤忠と合併。それ以上に関しては銀行側は補填するという内容で決まり、合併が実現されました。

安宅産業労働組合結成

動画ではほとんどお伝えしませんでしたが、これら合併の動きに対しての安宅産業の従業員についても補足します。

安宅産業には労働組合はなく結成されたのは伊藤忠との提携が発表された後の1976年1月20日です。それ以前には安宅社員会という独特の組織がありました。事務費用などの運営費用は全て会社持ちとなっており、社員の待遇改善などを掛け合うなどのお願いベースとなっております。これは社員はすべて家族同然という社風がそうさせていたといわれております。

1975年の11月にボーナスは毎年他社(兼松江商やニチメン)と同程度(4.5ヶ月)だったのに対して、今年は会社から回答を得なかったため、ついには「要求」という単語を使った抗議文を出します。12月7日にはNRC破綻が報じられたことにより安宅産業の経営危機が明るみに出て一気に社員に焦りが出ました。

老舗の総合商社である安宅産業が潰れることはあり得ないと思い込んでいた社員も大きく動揺しました。さらには伊藤忠との合併を見込んだ業務提携の発表があり、急速に安宅産業の状況が変わり、労働組合ができるのは不思議ではありませんでした。

この労働組合の結成大会には加入対象者の88%である2600人が参加し、大きな組織となっております。そこでの労働組合の執行部は「安宅が倒産した場合、影響額が大きいから、銀行が支援してくれている。さらに政府・日銀が放っておかないから倒産の恐れはない」「合併の問題は安宅の焦げ付きを全部整理した上でという条件だから、銀行がその条件を満たす覚悟があれば、安宅は自主再建が可能」というどこかで見たことあるようなフラグと超理論を展開しました。

ちなみにこの言い分はすでに安宅の経営陣に当事者能力を失っていたため、誰にぶつければいいかわからなかったようです。組合はNRC以外の国内の損失でも1000億円~2000億円あると見込まれてから、自主再建を諦めてます。

今度は人員整理に反対するためにストを決行します。しかしそれも全員ではありませんでした。伊藤忠への移籍がほぼ確実と思われる鉄鋼や化学などはストに不参加。ストに不参加だっ者は300人は労働組合を除名されました。

安宅産業バトルロワイヤル

関係会社や従業員を含めた整理は急ピッチで行われ、8月31日には900名もの希望退職社を募った。これに対しては労働組合は人員整理反対するため、どんな嫌がらせをされても会社を辞めたり希望退職に応じないとヤモリのようにへばりついても会社をやめない「ヤモリ作戦」を展開。

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安宅労働組合はNRC問題は住友銀行の責任で、安宅と伊藤忠との合併を歴史上まれにみる企業破壊と糾弾します。これら糾弾も特に影響がなかったのか、結局は全体で1000人ほどの人員整理ができました。しかし安宅労働組合はなんだかんだと言って目標人数が達成されてないとして「ヤモリ作戦は成功」と総括した(説明はめんどくさいので割愛)。

合併が決定したあとの1977年にも800人の人員整理を発表し、伊藤忠への椅子取りバトルロワイヤルを行われました。若手社員の中が「お前が辞めろ」と罵り合う姿もあったようです。これら極限の人間模様は松本清張著の『空の城』の小説にもされました。

結局は3600人中伊藤忠へ行けたのはは1000人ほどで、1800人ほどは希望退職による退職だったようです。

 

労働組合って結局状況を引っかき回しただけやんけ

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急遽結成されたからな、

仕方がないっちゃ仕方がないんだが

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         いやー守るものがある人は

         大変ですなー

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守るものが何もないお前が言っても
重みがないな

 

 

安宅のサイコパスな取引事例

どうも係長です。しくじり企業Lに注力したので、安宅産業の補完ブログが遅れてしまいました。


【ゆっくり解説】しくじり企業L 07話 ~トイザらス(Toys "R" Us)~

今回は安宅産業のサイコパス取引の実例を書きます。安宅産業は総合商社最下位という汚名を返上するために、積極的(?)に売上を伸ばそうと様々な取引をしました。その一つが前回お伝えした海外のビッグプロジェクトとして石油取引です。今回はその他の取引事例を書きます。

 

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日本衣料の取引

安宅産業は縫製を営んでいた日本衣料と1974年から取引を行いました。当時の繊維業界は日米繊維協定に基づき、米国は輸入制限をかけていた為、繊維業界全体が不況にあえいでいました。そんな真冬の状態で突入したのが安宅産業です。安宅産業は資金繰りに苦渋していた日本衣料に対して、輸出が主だった縫製工場を国内向け生産に転換させて、安宅産業は原料の納入や製品販売に伴う金融を引き受けました。

結果は多くの人が予想できるように、商品は売れず工場は在庫の山となります。日本衣料は業績悪化が加速、1975年には資本金の約10倍の40億円の累積赤字となりました。安宅産業が取引を停止すればこれらの赤字が顕在化することは目に見えていました。

安宅産業はこの赤字を顕在化させない為に、他社が取引を停止する中、さらに日本衣料にのめり込んでいきます。金融機関の代わりに借入金を実質的に肩代わりをしたり、在庫を処理する為(名目的には川下作戦を一層強化)に新たに販売会社を設立までしました。結果安宅産業は日本衣料との取引においてわずか2年間で債権を169億円にまで膨らませます。(日本衣料の資本金は数億円)

ゴルフ場建設

動画でも軽く触れましたが、安宅産業はゴルフ場建設にものめり込みました。田中角栄氏の日本列島改造論により空前の土地ブームが起きました。今と違い地方の土地までが高騰します。その中安宅産業は不動産投資やレジャー産業としてゴルフ場、ボウリング場、サウナ風呂などにも進出しました。そして最も注力したのがゴルフ場建設です。

安宅産業は総合商社が11カ所のゴルフ場建設を同時並行的に行うという、とち狂った事を行います。これは営業本部がそれぞれ独自にゴルフ場建設を計画したことによるものだと思います。このゴルフ場建設は日本列島改造論ブームと取引先の依頼に安易に飛びついた結果です。ちなみにこのゴルフ場建設は当時の市川社長は殆ど実態をしらなかったようです。

ゴルフ場建設は安宅破綻後、一部なんとかゴルフ場にすることができたものもあるようです。その中の一つが大月カントリークラブとのことです。※参考図書は下記に貼っときます

大月カントリークラブ【公式ホームページ】│ 富士山と四季の花樹のコラボレーションが活きる名門コース

穀物取引

安宅産業は売上をなんとか伸ばす為に既存の取引に無理矢理介入する事例があります。その中の一つが海外の穀物取引です。

米国のガーナック社とその兄弟会社である英国のヨーロピアン・グレイン社との穀物取引に介入しました。元々両社で取引が成立しておりましたが、安宅産業がガーナック社から穀物を買い日本に輸入して、輸出してヨーロピアン・グレイン社に穀物を販売するという形にしました。もちろん伝票上の話しで、実際は日本に輸入はされておりません。

これで輸出入代行業務として手数料収入があればいいのですが、安宅産業は逆に手数料を支払って、この取引に介入します。これは今後の取引につなげることも考えられますが、実際は社内に設けられた輸出入奨励金を得られることが目的でした。

安宅産業はこのような事実上の架空取引と思われるものが多く存在しておりました。特に三国間貿易は非常に多く、銀行の管理下に入った1976年9月期の中間決算以降は大幅に三国間貿易の売上が下がりました。

売上増という結果だけを追い求めた結果、架空取引や無理な取引が蔓延して、安宅産業への破綻へと導かれました。

 

手数料払って売上伸ばすって意味分かんねーぞ

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「売上を伸ばす」という結果だけを追い求めて

会社を破綻させるって・・・

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ぶっちゃけこういう目標に対して

結果しか見てないやつ結構色んな会社にいるぞ!

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            まあ、そうだろうな・・・

 

目標設定誤ると痛い目を見る事例だと思います。

 

安宅産業と石油

どうも係長です。バタバタしてブログや動画の更新が滞り気味でした。ちょっと気合いを入れていきます。


【ゆっくり解説】しくじり企業 Chapter19 ~安宅産業~

今回は安宅産業をチョイスしました。予想以上にカオスな企業だったので、作った後に動画を改めて見るとやばい企業だなと素直に思いました。

今回解説するのは安宅産業破綻の直接的な引き金となった、石油取引事業について掘り下げます。

 

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なぜ石油事業をやりたかったのか

安宅産業は総合商社の中で最も売上規模が劣る企業でした。挽回するには石油事業などのビックプロジェクトなどを行う他ありません。

戦後、安宅産業はGHQによる集中排除法、いわゆる財閥解体のターゲットとされました。安宅産業は当時の副社長で後の社長となる猪崎を中心にGHQとの交渉を行い、財閥解体から免れることに成功しております。このとき最も活躍したと言われるのが、高木でした。高木はハワイ出身の日系2世で貿易商に務めておりました。1943年に安宅産業に入社することになりますが、敗戦後に堪能な英語を武器にGHQとのパイプ役になることで脚光を浴びます。

安宅産業はニューヨークへの再進出を目論んで、その先鋒として高木に白羽の矢を立てます。20年間ニューヨークで働きますが高木に対しての評価は、とてつもない大きなプロジェクトを持ち込むか、チームプレーができない人という極端なものです。高木は「アメリカに第2の安宅帝国を築く」と豪語するほどの野心家でした。高木にとって日系2世というのは武器であると同時に「所詮は英語屋」というようなコンプレックスと感じる部分であったとも言われております。

高木とシャヒーン

高木はこの大きな野望を実現するために、石油事業を手がけていたシャヒーン氏に接触を図ります。シャヒーンは最初安宅を知りませんでしたが、NRCの運転資金を用立ててくれるということで取引を開始することにしました。シャヒーンは当時他の総合商社にNRC計画を持ち込みますが、資金計画の杜撰さやシャヒーン氏自身の怪しさから断れていました。その中で安宅アメリカ社長である高木は十分な分析をせずにシャヒーンとの取引を開始しました。

NRC計画とは?

NRC計画の中身について解説しますと、このNRCというのはニューファンドランド・リファイニング・カンパニーの略で、中東から安い石油を輸入し、カナダのニューファンドランド島に運び込み、石油工場を建設し、アメリカ東海岸の石油市場で売却するという流れでした。当初はニューファンドランド州設立を計画していたが途中でやばい取引(政治的)ということがわかり頓挫しました。シャヒーンはなんとかNRC計画を実現させようとしたところに安宅産業が来たという形です。

1973年6月に安宅産業はNRCとの総代理店契約を結びL/C(信用状)を開設します。そしてこの契約の数日後に高木は安宅本体に黙って、無担保で4200万ドルを10年以上貸し付けるという補助契約をNRCと結びます。これは高木がなんとしても石油取引の契約を結ぼうとしており、そこにシャヒーン氏がつけ込んだ結果だと思われます。

10月には石油精製所の開所祝賀会がニューヨークから豪華客船のクイーン・エリザベス2号で盛大に行われました。ちなみにこの4日前にオイルショックの引き金となる第四次中東戦争が勃発しております。

高木はこの代理店契約について「銀行とも相談したことであるし、本店も知っていた」と謹慎中の身で語っていたようです。

赤字精製所NRC

NRCは実際に稼働はしたもののいくつもの問題が発生しました。まず一つがなんといっても第四次中東戦争による原油価格の高騰により、前提としていた安い石油が手に入ることができず、目論んでいた価格より何倍も高い原油を精製することになりました。さらにアラブが販売ルートも頼りにしていたユダヤ系の石油販売会社をボイコットのリストに載せた為、販売ルートが断たれます。

精製所に関しても、建設コストが高騰したことにより、工場が手抜きで建設されて、重要な部分に不具合が生じ、精製された石油の純度が下がり、赤字を大きくする要因になったとシャヒーンは言い訳をしております。

さらに石油を運ぶ為のタンカーにも問題がありました。NRCの原油精製能力は日産で6万バレルで、タンカーは20万トン級であれば4隻で十分でしたが、NRCはなぜか7隻も用意しておりました。これについてははっきりしておりませんが、今後の拡大計画に対応する為、単価が安いうちに契約をして、高騰したら他に回して利ざやを稼ぐつもりだったのではないかと言われております。しかし実際はオイルショックの不況により海運市況も下がり、固定費を増やして赤字幅を広げる要因にしかなりませんでした。

これらの要因によりNRCは毎月日本円で30億円の赤字を精製することになり、安宅産業を苦しめる要因となりました。

 

石油取引に俺も混ぜてくんない?

お金用立てるからさ!無担保で返すの10年後でいいよ!

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売上がほしいのがにじみ出てるよな。

こりゃシャヒーンじゃなくても

色んなところから足下見られてたと思うぜ。

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       むしろお金払うからうちを通してよ!

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こんなこと言ってるやつ怖くて取引したくねぇわ

 

次回は国内のカオスな取引実態を解説します。

アパート融資問題 TATERU

どうも係長です。なんか、どこまで問題が大きくなるのかわからなくなってきました。 

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一部上場企業が融資資料を改ざん

日本経済新聞の報道で、アパートの施工管理を手がける東証一部上場のTATERUが、建設資金の借入希望者の預金通帳を改ざんして、銀行に融資の申請をしていたことが発覚しました。TATERUは改ざんの事実を認めて、借入希望者に謝罪しているとのことです。

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TATERUは2018年8月31日にIRニュースで、上記の融資の申請の改ざんの事実を認めております。従業員が顧客から提供を受けた預金残高データを改ざんして実際より多く見せて西京銀行に提出し、審査を通りやすくしていたと記載しております。顧客から手付解除の要望を受けた場合には謝罪として受け取っていた手付金50万円の2倍の100万円を支払って手付解除をしているとのことです。

報道では50代の会社員がTATERUから名古屋市内で木造3階建て、全9個のアパートを紹介され、土地・建物で約1.1億円の購入資金を西京銀行の融資を利用。自己資金がない状態で1.1億円の借入を実行してもらうという、サイコパスな融資の例があったようです。TATERUの担当者は西京銀行に提出する預金残高のデータを23万円から623万円に水増ししていたことが発覚。

本日の一部報道について

TATERUとは

TATERUはアプリでアパート経営を行うサービスや、アパート経営したい人向けに土地を紹介し、デザインアパートの提案・建築・賃貸管理のサービスを提供しております。

サブリース契約とか、土地・建物を含めたものをTATERUがオーナーに販売していたかなどの取引形態は不明です。事業紹介動画では入居率は97%とうたっております。アパート管理戸数はこの少子高齢化の中順調に増やし現在では1.3万戸、オーナー数は1千人を超えているようです。

www.tateru.co

業績はほんとに好調?

TATERUは期首に今期の売上高を276億円と予想していましたが、8月3日に売上高を373億円と上方修正をかけています。この好調な業績の中身が気になるところです。銀行はマイナス金利により苦境に立たされていて、アパート融資は数少ない融資案件だったところですが、そこを狙われて脇をつかれた感じですね。スマートデイズや今回のTATERUなどの新興企業が問題になっておりますが、これが実は業界では当たり前だったなんてことがないかどうかが心配です。

 

また融資改ざんってここ一部上場企業なのかよ!

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業績は好調のようだが果たして本当なのか・・・

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         オーナーインタビューのページが

         イタすぎるんですけど!!

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今後次第では黒歴史になりそう・・・

カカチャンネル 登録者数5万人突破!

みなさんありがとうございます!!

まずは感謝を述べさせてください。

ついにカカチャンネルのチャンネル登録者数が5万人突破しました。これも皆さんの応援あってのことです!

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ここで恒例の歴史を並べます。

  • 2016年11月19日・・・チャンネル開設
  • 2017年5月15日・・・登録者数20人程度
  • 2017年6月12日・・・登録者数100人突破
  • 2017年7月23日・・・登録者数1000人突破
  • 2017年8月23日・・・登録者数5000人突破
  • 2017年10月18日・・・登録者数10000人突破
  • 2018年8月29日・・・登録者数50000人突破←New

これが早いのか遅いのかよくわかんないですが、人と比較してもしょうがないのでとりあえず今は喜びたいです。帰りの電車の中で50000人突破の瞬間を見ましたが、思わず発狂しそうになりました。

今年はじめのブログでは今年の登録者数の目標を50000人と定めましたが、8月が終わる前に達成するという目標設定がくっそ下手くそな私です。安定的に1ヶ月に1~2本程度アップできるようになりましたが、やはり仕事との両立はきついっすね。なんか投稿が止まったら、私の命が止まったと認識してください。

 

www.cakaricho.com

 

動画のアップするタイミングぐらいは意識していますが、やはり基本的には自分が作りたい動画を作るという基本スタンスは変わってないですし、これからも変わらないと思います。

ただこれからは多くの人が期待して見てくださってるという自覚を持って、投稿頻度、質をちょっとずつでもいいから上げていきたいと常々思っています。一応今年の冬からはこれらをちょっとでも実現するために色々調整をしております。もう少ししたらご報告もできるかと思いますのでお待ちください。

 

皆さんの応援により目標を前倒しで

達成できました!

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この勢いで今年中に10万人突破だーーーー

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          いや、それはちょっときっついわー

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お前のそういうところがだめなんだよ

 

来年の目標は10万人で銀の再生ボタンをゲットしたいですね!

【まとめ】北海道拓殖銀行の功罪

今回は北海道拓殖銀行(拓銀)ブログの最終回を書きたいと思います。

 

 

北海道拓殖銀行の印象

私の中で北海道拓殖銀行という銀行(企業)は破綻当時は小学生ぐらいだったこともあり、地方銀行に近い都市銀行程度しか認識がありませんでした。当時の金融恐慌では山一證券の野澤社長の記者会見のイメージが強く、拓銀についてそこまで印象はなかったです。ただ、多くの人からのリクエストを頂き、気になって調べ始めたのがきっかけです。

今回純粋な普通銀行は初めて取り扱いましたが、改めて銀行というのは影響力が大きく、経済において依存しているのだなと感じました。銀行が止まることは、振込ができなくんらい、お金もおろせなくなります。企業であれば手形を現金に変えることも困難になり、電子マネーもなかった当時はまさに生命線だったと思います。そんな都市銀行が潰れたのだからそりゃ話題にもなりますよね・・・。

銀行の外部環境の変化

金融自由化により、金融業界は大きな変革期を迎えました。それまで、預金を獲得すれば儲かり、なにかあれば金融庁や大蔵省から守られた存在でしたが、自由化によりその前提が大きく崩れました。お金を預かり運用をしなければ同業他社に負けるようになります。そんな中訪れたのが、80年代後半から始まったバブル期です。多くの銀行はバブルの流れに乗った土地投機やリゾート開発に資金を供給して、どんどん膨張されました。拓銀は80年代の終わりという、バブルが終焉に向かう時点で行うという非常に遅いタイミングで土地関連に積極的に融資します。

北海道経済に関して、私は人並みの知識しかありませんが、夕張市が代表するように、石炭産業が大幅に衰退し、他の主な産業は農業や水産などの第一次産業に依存していたということぐらいです。貿易の自由化により第一次産業での競争が厳しくなり、北海道はだんだんと厳しくなります。過去の石炭で取得した資本を使い、リゾート開発を積極的に行うようになりました。箱モノ事業を積極的に推進いった結果が、それらの多くが失敗し不良債権へと変わりました。

拓銀の功罪

拓銀はこれらの北海道の衰退産業や新たな挑戦に対して支援を続けてきましたが、結果は振るわず、結局残ったのは不良債権の山でした。不良債権に対して、再び株価・土地の値段が回復を信じて(信じるしかない)、飛ばしなどに手を染めましたが、結局は破綻を遅らせるだけでした。

今回の根本の原因は前述の金融自由化により銀行の外部環境が大きく変化したことが挙げられます。大蔵省は国際的批判を避けるために急激に自由化を行います。銀行は慣れない競争環境の中なんとか生き延びようと、銀行は預金を運用するために不動産やレジャー関連に融資を積極的に行い、バブルを引き起こし、その後の日本を大きく低迷させる要因にさせました。

誰が悪かったのか?

それでは国だけが問題だったかというとそうでもないかと思います。いくら環境がそうさせたとは言えども最終的に決断をしたのは拓銀ですし、何をするにしても決断が遅かったです。バブル崩壊後積極的に不良債権処理を行い、身をきれいにしていた銀行は合併などにより生き残りました。一方拓銀はいつか景気が戻ると信じて不良債権を隠すためにさらなる不良債権を生む悪循環を作っていくことになりました。さらには北海道の産業を守るという名目で回復の見込みがない企業を延命させたり、甘やかした結果北海道経済の実態が隠されて、産業構造の転換を遅らせた要因にもなりました。

しかし現在の北海道経済を支えているのは観光産業や情報関連産業などの第三次産業が支えていて、その要因を作ったのは北海道拓殖銀行の功績とも思えます。

第2の拓銀

このように整理してみると拓銀は北海道経済に対する功罪と光と影が凝縮された企業だったと思います。ゼロ金利政策により多くの銀行が苦しくなっている中で、東日本銀行やスルガ銀行などの不正が浮き彫りになりつつ中で、今回の拓銀のように大きな銀行の破綻につながるきっかけにならないことを祈りたいです。

 

想像以上に難しい問題だと

作る途中で感じました。

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地方経済が苦しくなってきて、さらにゼロ金利政策で

銀行は苦しいからな。第二の拓銀がでないといいが

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            あ、でもネタが増えるから

            出るのもありかな・・・

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多くの人は困るんだよ!!

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北海道拓殖銀行はなぜ北洋銀行に営業譲渡したのか?

番宣ですが、しくじり企業Lでサムスンモーターズをアップしました。YouTubeでトラフィックが大きいこの夏休み期間に、完全に個人的に面白かった企業を取り上げるというクレイジーさですよ・・・。是非見ていってください。

 

今回の拓銀補足のブログですが、コメントでちょくちょくリクエストがあった、営業譲渡の前後について書きたいと思います。

 

拓銀と道銀の軋轢

97年になり急速に信用をなくした北海道拓殖銀行(拓銀)は春頃から北海道銀行(道銀)と合併の実現を目指しました。最初は一気に話しが進みます。しかし合併発表を行った後から、具体的な合併内容の詰めの段階で、銀行の形態(都市銀行or地方銀行)、不良債権の額について大きく揉めて破談となりました。当時の道銀は不良債権の厳格化により自己資本比率は国内基準の4%を下回る3%までにさがっていて決算承認銀行に指定されており、増資が必要な状態でした。当時の藤田頭取は単独に生き残れるよう、合理化を進めました。

それに対して、拓銀は自身の銀行に対して、強引な合理化を臨まずソフトランディングを望みます。これにより道銀側に不信感が生まれました。さらに互いの債権内容の開示したところ、拓銀に1兆円の不良債権があることがわかりました。道銀の藤田頭取は合理化で年間1千億円の利益を拠出できると見込んでいたが、1兆円を回収するのは見込めず「合併は難しい・・・」と合併に後ろ向きになりました。このときに拓銀側は、道銀が拓銀を救済する形で主導権を握る「藤田シナリオ」が狙いだと思い込むようになり、道銀に不信感を募らせました。これ以降拓銀が道銀に対してアレルギー体質を持つようになります。

なぜ北洋銀行に譲渡した?

合併が難しくなり財務体質の悪化や資金の先細りは明確だったため、拓銀は他の銀行や生命保険会社からの増資を打診をしますが、銀行や生保側の増資要件として、「道銀との合併」だったため、引き受けが難しくなっていました。

その後増資、合併ともに失敗した拓銀は一気に苦しくなり、11月14日に営業譲渡をせざるを得なくなりました。拓銀の河谷頭取は大蔵省の中井省審議官に営業継続を断念し破綻処理をすることを決断した旨を伝えました。大蔵省としては譲渡先の銀行は規模的にも道銀しかないと拓銀に伝えるも、拓銀側は一晩考えさせて欲しいと先延ばしにして、翌日の朝に道銀を拒否して、北洋銀行を希望しました。

このとき日銀側も大蔵省に電話をして、「北洋銀行を推す」と意見しました。北洋銀行の当時の頭取は元日銀の武井頭取です。これらを含めて日銀と大蔵省の縄張り争いでは?と言われることになります。

日銀は、北洋銀行の副頭取(元日銀)に「頭取に大蔵省に電話するように伝えて欲しい」と伝え、北洋銀行の武井頭取は大蔵省に電話をしました。そこで初めて大蔵省は武井頭取に拓銀の営業譲渡を受けて欲しい旨と当日の回答を迫りました。武井頭取はその場での回答を控えて、2名の副頭取と相談した後に、「日銀特融」、「預金保険機構から資金が出る」、「北洋銀行への営業譲渡は道内のみ」ということを確認した上で、営業譲渡を受ける方針を固めました。武井頭取は拓銀営業譲受の記者会見時に「拓銀の意見は聞くが、判断するのは私だ。これは合併ではない」と自身の立場を明確にしました。

 

ちなみに武井頭取は元日銀考査局(市中銀行の経営状態を調べる部門)に17年在籍していた為、銀行の破綻理由などを詳しく知っており、リスクに非常に敏感でした。バブル期も土地投機には手を出さず、堅実に住宅ローンなどに力を入れ、バブル崩壊前に北洋銀行で保有していた株を手放したことにより評価損を出しませんでした。

北洋銀行は週明けの17日に正式に臨時取締役会を開き、北海道拓殖銀行業務の譲り受けの決議を取りました。武井頭取は「反対意見のある者は言って欲しい。それが議事録に記されていれば、株主代表訴訟があっても免責されるから」とした上で、一人一人の役員に意見を求めた。この譲り受けで北洋銀行に損失を被ったら、株主から訴訟されるリスクがあるからです。その上で役員全員は反対せずに北海道経済の為にやるしかないと、決意を固めて譲り受けの決議しました。

北洋銀行は札幌銀行と合併を行い札幌北洋ホールディングスを設立。リーマンショック時に大きな損失を出しましたが、比較的に堅実に営業を行っており、全国シェア5位、北海道でのシェアでは圧倒的で、第二地方銀行としての預金量は突出するシェアを誇っています。

金を運べ!

営業譲渡先がほぼ決まり、本格的な破綻に向けての対策を行います。週明けに拓銀破綻のニュースが出れば、取り付け騒ぎは起きるのは明確です。そのために、各支店に潤沢な現金をあらかじめ用意する必要があります。日本銀行はあらかじめ用意したマニュアルに沿って拓銀4兆円の資金量の内、2%の800億円を資金として算段して備える必要がありました。拓銀は360億円の現金を保有していたため、残りの現金は一晩でピストン輸送で対応して、各支店に行き届かせ、万全の体制にし、大きな混乱を発生させませんでした。(たくぎん抵当証券は置いといて)

本州支店は?

残りの本州の支店は中央信託銀行(現中央三井信託銀行)に吸収合併されました。当時の中央信託銀行は独立系で、銀行の後ろ盾がなく、ジリ貧の状態でした。そのため、拓銀の本州支店の営業譲渡は渡りに船でした。中央信託銀行は2000年に三井信託銀行と合併することになりました。

 

武井頭取のコメントを読みましたが、

本物の銀行マンだと思いました

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結果北海道では圧倒的なシェアを

誇ってても結果論だからな・・・

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          俺もこういう決断してみたい・・・

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提督の決断でもやっとけ

 

拓銀破綻は本当に北海道経済を悪化させたのか?

今回は北海道拓殖銀行の補足第2弾です。北海道拓殖銀行の破綻は北海道経済に大きな混乱を招き、悪化させたと言われております。しかし本当にそうなのでしょうか?今回は拓銀の破綻で混乱あるいは破綻した企業をいくつか紹介します。

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破綻寸前だったニトリ

動画内でもさらっと記載しましたが、有名なものの一つが大手家具小売りのニトリ。ニトリは当時メインバンクが北海道拓殖銀行、主幹事は山一証券という奇跡のコラボを実現した結果、1997年に資金繰りがピンチになりました。ニトリは新株予約権付社債を発行。引き受けはスイス銀行でその保証を山一証券が行っていましたが、その山一証券が破綻。メインバンクの拓銀も破綻したことにより、3日以内に50億円を用意して返済しないと債務不履行(デフォルト)となり、破綻というピンチを迎えました。このときは住友銀行が保証をつけてくれたおかげで、無事回避しました。このとき似鳥社長は銀行に頼らない経営を目指し、今日の成功へと結びついたようです。

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結局消えたハドソン

一時的に救われましたが、結局消えた企業もあります。例えばゲームメーカーのハドソン。ハドソンはメインバンクである北海道拓殖銀行の破綻により資金繰りの悪化で、収益性を高める為に携帯電話向けの事業に乗り出しますが、経営状態が好転せず、コナミ資本が入り、そのままブランドは消滅しました。

危機感なく破綻の函館製網船具

他には漁業資材製造の函館製網船具。札幌証券取引所に上場もしていた企業でした。水産不況で業績不振に陥り経営が悪化。二度の人員削減を行い、コーヒーメーカーのリース事業やコンビニエンスストア経営などの事業多角化で経営改善を図るも成功せず、6期連続の計上赤字となる非常にわかりやすい悪化の仕方です。拓銀の破綻により金融機関の協調支援が困難となりました。一部では危機感がなかったと指摘されています。

拓銀は自身の経営破綻もありますが、函館製網船具が破産したことすら知らなかったようです。11月末日の運転資金を融資して、12月はじめには「抜本的な再建策に取り組んでおり倒産することはない」と語っておりました。その後の12月18日の決算発表では来期黒字に転換するとの業績見通しを合わせて発表と拓銀を安堵させますが・・・。1週間たたずの12月24日のクリスマスイブに函館製網船具は経営破綻。従業員200人に解雇通告という粋なプレゼントをするという伝説を残しました。

なれ合いの果ての天塩川木材工業

もう一つの事例として紹介するのは木材業の天塩川木材工業。この道内の木材業界は結束力を高めてお互いを守りながら共存共栄していきました。しかし80年代以降の海外の輸入木材の攻勢にあいます。ぬるま湯に浸かっていた企業に競争力はなく、この攻勢に耐えられることなく、業績が悪化していきました。

北海道内の木材業界はこの競争に勝とうはせずに、同業者同士の助け合いという名のなれ合いを行いました。行ったのは融通手形という手法です。簡単に言うとお互いが手形を振り出し合って、その手形を銀行に割り引いてもらい現金化します。もちろん両方返済が必要なものとなりますので、さらに融通手形を行い現金を作るという自転車操業が生まれます。拓銀はこの粉飾を行っている企業に対して「伝統がある」ということで財務内容を無視して、融資をし続けました。これら無理矢理な延命をした結果、この企業の負債額は210億円にまで積み上がり97年11月に破綻しております。

混乱はしたが悪化したのか?

これら様々な企業を紹介していきました。もちろん大きな混乱をしたのは事実ですが、引き継ぎ先の銀行に融資を断られた多くは財務内容が健全ではないため断られたというところが多いようです。つまりすでに不良債権化しており継続困難であったと思われます。これらの事を考えると北海道拓殖銀行の破綻によって連鎖倒産したというより、すでに死に体だった企業が延命装置を取り外されたことによって、すぐに息絶えたと感じです。拓銀が必死に企業を支えすぎたことにより、北海道経済の実態が見えなくなり、産業構造の転換が遅れたのではと感じました。もっと早く斜陽産業をシフトしていれば違った北海道が見れていたかもしれません。

 

私個人の意見では当時すでに北海道経済は

危機的状況だったのでは?と思っております

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拓銀のずさんな融資の指摘もあるが、そもそもが

融資先の経営が悪化してたのが要因だもんな

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          まー延命させればみんなハッピーで

          見放せばみんな泣くからね。

          延命させるのもわからなくもないわ

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 わかるんだ・・・

 

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