年の瀬にかけてしくじり企業特別編として日産を作りました。元々別の動画を作る予定だったのですが、年末にカルロス・ゴーンが逮捕ということで気になって調べたのですが、そもそも日産の出自ってなんなの?ということで本格的に調べました。本気で調べるからには動画にせなアカンという気持ちが生まれて遂に動画化という流れです。
鮎川義介の野望
調べてみたところ今までで一番難易度が高いものでした。まずルーツですが動画でもお話したとおり、鮎川義介が興したところから始まります。鮎川義介は自動車そのものの生産は困難であると悟り、自動車の部品供給を積極的に展開していきました。関東大震災あたりではGM、フォードの天下となり、そのほか国内は3社を除いて破産・撤退となった為です。鮎川は部品をGMとフォードに供給することで部分的な国産化を目指し、技術力を身につけゆくゆくは国産自動車展開していくという野望を持ちました。
鮎川はダットサンを手に入れて、シボレーなどと競合しない小型自動車を量産する考えて、横浜に土地を購入、機械を200台、切削工具を輸入して、知り合いの技師であるゴーハムを米国に派遣して技術者を招聘して、一気に自動車製造(日産自動車)を作り上げました。ところでこのダットサンについてあまり触れませんでしたので、もう少し触れます。
ダット自動車
技師だった橋本益治郞が竹内明太郎(吉田茂の兄貴&小松製作所の創立者)の助力を得て、1911年渋谷村に快進社を設立。輸入車の組立と自動車修理の業務の傍ら、自動車製造の研究を行います。そして3年後の博覧会にて最高速度32キロ、3人乗の「脱兎号(DAT CAR)」を出品。エンジンを含めた日本の国産自動車の1号車でした。ちなみにこのDATは快進社の出資者である田健治郎、青山祿郎、竹内明太郎の頭文字を取っています。
この脱兎号完成後、他の業務を縮小して自動車製造に注力し、第一次世界大戦ブームの波に乗りで工場を大幅拡張しました。しかしこれが仇となります。1918年に世界大戦が終了、反動不況。また関東大震災で東京はめちゃくちゃとなり、その隙を狙ったフォードとGMが日本にやってきて、立ち上がり状態の日本の自動車会社は為す術もなく敗北しました。1920年以降は赤字が続き単独での存続が不可能になります。そこで出資者の青山が動き、大阪の実用自動車製造と合併して、ダット自動車製造となりました。こうしてダット自動車は国内3社の内の一つとなりました。
ダット自動車は1930年に小型乗用車を作りDATの息子という意味でDATSON(ダットソン)と命名します。しかし「SON」が「損」と縁起が悪いことからSUN(太陽)としてダットサンに変更しました。1931年には、戸畑鋳物が買収して傘下となり、ダットサンのブランドや製造の大半が自動車工業(後の日産)に受け継がれました。
ダットサンブランド
ダットサンのブランドは大きく、以前は日産より遙かに知名度があり、社名がダットサンだと勘違いした人も多かったようです。1981年に当時の社長であった石原の方針によりダットサンのブランドを順次廃止されました。結構調べたのですが、石原がなぜダットサンブランドを廃止したのかは不明です。このダットサンブランド廃止は多くのファンが納得していなかったようです。
2012年に日産は新興国向けの低価格ブランドとして、ダットサンの復活が発表されてロゴも出しました。2014年からはインドネシア、インド、ロシアで製造されているようです。
動画のコメントを見たらダットサンブランドの
廃止にキレてるな・・・
今ではNISSANブランドが当たり前だけど
廃止して30年以上愛されてるブランドもすごいな
お前の場合動画投稿をしなきゃ
1ヶ月で忘れられるのに
反論できねぇ
参考図書↓