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新潟中越地震奇跡の半導体工場復活も・・・
2004年10月23日に発生した新潟中越地震。土曜日にもかかわらず200人が出社した中、地震に見舞われたが不幸中の幸いで死者、重傷者なしということだったが、設備が壊滅的な被害で少なくとも300億円、復旧に3ヶ月~半年かかるという目算で、マスコミは「新潟三洋電子、復旧の目処立たず」という記事が出ていました。
現場は家族優先してくれという言葉にもかかわらず、管理職やメンテナンス担当は翌日から交通網が寸断されているにも関わらず歩いて出社するほど。
そして12月25日に想定以上のスピードで復旧することができた。これは現場社員の奮闘によるものだとすぐにどもわかりますが、顧客は既に他の会社から調達するようになり、売上が激減し、さらには代表取締役や事業責任者が現場に来なかった。これにより一部社員は「見捨てられたのか」という思いもあったようです。事業責任者は実情と乖離したリベンジプラン(事業計画)を建てた結果、大赤字となり、結果早期退職などのリストラを行うはめとなり、工場復活に心血を注いだ社員を切らざるを得なかった。さらには若手の優秀な技術者がいなくなったことにより、三洋電機の半導体工場は本当に復旧できなくなりました。
子の心親知らず
群馬にある三洋電機工場、ここでは業務用空調施設などを製造していおります。三洋電機にとってコンプレッサーはドル箱事業です。特に得意なのが、高度な技術を擁する大型コンプレッサー。2000年代中盤時点ではアジアでは日本以外に高品質なコンプレッサーを作れる国はなかったそうです。そんな高度な技術を持つ稼ぎ頭の工場は戦前から戦闘機を作っていた施設をそのまま使用しているため天上は崩れかけている。そんな中社内改革を呼びかける会長の野中ともよと社長の井植敏雅がにこやかに並んだ派手なポスターが並んでいたそうだ。そんな過酷な状況の中利益を確保して三洋電機を支えてきてた横でテクノゲートと呼ばれる巨大なR&Dセンター(研究開発施設)を70億円で建設されました。
鳥取三洋電機は炊飯器や電気毛布などの派手ではないが確実な商品を地道に作っていた傍らで大型液晶工場で910億円もの巨大な資金を注ぎ込み収益が繋がらず、結果100億円の特損を計上することに。
鳥取三洋電機には確かな技術力もあり、投資ファンドから出資してもらい三洋電機本体から独立してはという誘いもあったようです。しかしながら「今は本社が大変なときですから、本社への利益貢献を考えていますが・・・」として断っていたようです。しかしながら白物家電事業は三洋電機本体がハイアールに売却するという結果に終わりました。
小さく勝てて大きく負けた営業
1991年に三洋電機はNHKでハイビジョン放送が1時間から8時間に拡大されたとき、商機と見てハイビジョンと通常の放送が見れるコンバーターを開発、そこから「帝王」という商品を開発。33インチで台をつけて50万という価格。これを値引きせずに売れというトップダウンの指令が入った。特約店では扱ったことのない高単価な商品で売れなかったようです。そこでプロジェクトチームを発足して独自の営業部隊の努力により売りきったというエピソードがあります。
90年代からは家電量販店がメーカーの特約店の販売網を超えて主導権を握られ、値引き要請に屈して、収益力が下がるようになった。さらにはトップセールスとして国内小売最大手のイオングループの岡田元也社長に掛け合うが、イオンのプライベートブランドのトップバリュの家電を作れとなり、また収益性が下がった。
結局のところ高い技術力があり、現場レベルでは創意工夫をして売り込んでいたが、肝心の大きな商談でことごとく失敗した結果が三洋電機の弱体化に繋がったのではないかと思います。
次回は携帯電話事業などを書きます・・・。